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【心の闇の探求】第二章-10 [心の闇の探求]


 すみません、配信が遅れてしまいました>< 定期的に届けられるようにと言ったのに全然守れてないですねorz 反省して出直してきます・・・(よよよ
 本日は私の修士論文『心の闇の探求 ~現代社会の歪みに対する一考察~』より、第二章その10を公開致します。ルビとかあまり振ってなかったと思いますので、もし読みづらかった申し訳ありません_._



序-1/序-2/第一章-1/第一章-2/第一章-3/第一章-4/第一章-5/第一章-6/第一章-7/第一章-8/第一章-9/第二章-1/第二章-2/第二章-3/第二章-4/第二章-5/第二章-6/第二章-7/第二章-8/第二章-9/第二章-10/第二章-11/第二章-12/第二章-13/第二章-14/第二章-15(2010-09-11公開予定)》


第二章 殺人の意味論

- 第二章-10 -

第三節 キルケゴール的絶望

(第一項 「自らの内に巣喰う魔物」)

 これがまた、人間の壊れやすさを確かめるための「聖なる実験」として行った《通り魔事件》を起こした後に書かれたものである事はまた象徴的であるのだが、酒鬼薔薇は「《脳内宇宙》の理想郷で、無限に暗く、そして深い腐臭漂う独房の中で」息衝く自らの影を、しっかりとその両の眼で見つめていたのである。芥川賞作家の柳美里が述べたようにこの作文が「精巧に構築されたフィクション」として酒鬼薔薇の中で位置づけられていようとも、それは少なくとも自らの思想をニーチェやダンテのことばを借りて表現するぐらいには、(例えそれが彼らの言葉の真意からは外れているとしても)自らの中にある「魔物」についての理解はあったのである。

 また、私も同等の意見を持つものであるが、少なくとも、自分の内部に隠さなくてはならない闇を抱えていると感じている人間は、それ故に外部(いわゆる外づら)には一層注意もするし、また無頓着ともなるものである。これは作文中では「大多数の人たちは魔物を....」から「俺たちが思いこんでしまうように。」までに表されているものであるが、つまり、自らの内面を他人に悟られないようにするために、表面上は何の問題も起こさず、目立ちもせず、ただ相手の望むように自分を「閉じ込めて」行動する。これは要するに、いわゆる〈良い子〉として外面的には表出しているのである。*35

*35 このように断言できるのも、序で述べたように私自身、彼らと同じような地平にいると常々感じているところがあるからであり、私が自分自身について考えていた事とまさにこれは寸分の狂いもなく一致しているものがあるからだ。人は自らが周りと違うと思えば思うほど、表面上は周り以上に普通になるものであり、またそれ故に内部の闇は深くなっていく。この事についてこの先しばらくの間、詳しく論証していこう。




 これは、R・D・レインが分裂病者の〈にせ-自己〉の体系を導き出す際に観察したものとあるいは同一のものであるのかもしれない。彼はその著書『引き裂かれた自己』の中で、にせ自己の行動として次のようなものを述べている。




しかし、このにせ自己の行動は、(その大部分が他のいろいろなパーソナリティのまねであったり劇画であったりすることはあるにせよ)必ずしも母なる他者の模造や模写である必要はない。さしあたって我々がここで識別しておきたい構成要素は、自分自身のかわりに他者の意図や期待と感じられるものに、最初、盲従するということである。普通これは〈いい子〉でり、言われたことよりほかは何もせず、〈困り者〉にならず、自分がもつ反対意見を主張もしなければ漏らしもしないという、行き過ぎの状態までいたってしまう。いい子であるということは、そもそも、他者から善と言われるところを自分の側から積極的にしようとする欲望に発しているのではなく、他者の基準であって自分のものではない基準に対する消極的服従であり、もし本当に自分自身となるならば当然起こるであろう恐怖感によって促されている。だから、この盲従は一部分は自己の真の可能性への背信であるが、それはまた、自己の真の可能性を隠蔽し保存する方法でもある。しかしながら、この真の可能性が、想像の上では一切が可能であるが事実上は何事も可能でないところの内的自己に凝集されてしまうなら、それが現実の中に移される危険性は少しも存在しなくなるのである。*36

*36 R・D・レイン『引き裂かれた自己』(坂本健二/ほか訳 みすず書房 1971)pp.130~131




 ここで言っている事は、切り離されたにせ-自己(これは真に自分のものではない)に自分の外面を任せることで、真の傷つきやすい自己を守ろうとするメカニズムのことである。これらはある種、今までここで述べてきたことのメカニズムと一致する。

 だが、それでもそのレインの述べた分裂病者の〈にせ-自己〉体系と酒鬼薔薇ら無動機殺人者となる道を選ぶ自己には、やはり明らかな相違が存在するのである。即ちそれは以下の点である。分裂病者のにせ-自己は傷つきやすい自己を守ろうとする〈恐怖感〉から発せられているのに対し、酒鬼薔薇らのそれは自らの闇の心を秘密にしておこうとするが、決してこの自己を傷つけられる〈恐怖感〉から秘密にしようとしているのではない。むしろその自己そのものが強く自分を浸食してくる〈何か〉であり、より強大なものなのである。

 彼らはその自己を自らの内面の内のみに留めようとして、外面的にはその背後を探ろうなどとは誰も思いつかないような自己――即ち〈いい子〉の仮面を被る。そのような現象自体は確かに同一ではあるが(したがって、またある程度はその効果やメカニズムも同一ではあるが)、そこに至ろうとする自己意識の状態――即ち、外面からの防御としてにせ自己を持つか、外面への防御としてにせ自己を持つかの状態の違いは、明らかにそこにあるのである。*37

*37 ちなみにいま述べてきたようなことは、キルケゴールが〈絶望して自己自身であろうとする自己〉に対して行っている考察に見事に合致する。例えば『死にいたる病』の中にある次のような記述を見てみると良い。そこにはまさに自らの内面に闇を抱えて生きているような自己(したがって、今まで考察してきた自己)と同じ力動が感じられることだろう。

この種の絶望は世間ではめったに見られない。(中略)そもそも、対応する外面、つまり閉じ籠もりに対応する外面などというものがあるとしたら、それは自己矛盾だろう。そもそも、もし対応するものがあれば、それは顕わなものであるはずではないか。むしろここでは、外面はまったくどうでもかまわぬものである、ここで主に注目されねばならないのは、閉じ籠もっていること、あるいは、しっかりと鍵のかかった内面性とも呼んでもよいようなものだからである。(中略)絶望が精神的になればなるほど、内面性が閉じ籠もりの状態として自分だけの独自の世界となればなるほど、絶望が身を隠す外面は、ますますどうでもいいものとなってゆく。いやむしろ、絶望が精神的となればなるほど、それだけ絶望そのものは、悪魔的な抜け目なさで、絶望を閉じ籠もりの状態に閉じ籠めておこうと、ますます心をくばるにいたり、したがってますます外面のことに無関心をよそおい、外面的なことをできるだけつまらない、どうでもよいことにしようと気を使うにいたるのである。(中略)絶望が精神的になればなるほど、その背後に絶望を探そうなどとは普通なら誰も思いつくことがないような外面のなかに住むことが、ますます重要になってくるのである。こうして隠れていることは、精神的なことにほかならず、いわば現実の背後に1つの閉じ籠められた部屋を、人を閉め出して自分一人だけでいられる世界を、絶望した自己が自己自身であろうと欲することに休みなくタンタロスみたいにいそしんでいられるような1つの世界を、確保するための1つの安全策なのである。




 さて、それでは少し話を戻そう。酒鬼薔薇がこのような闇の深淵を自ら覗き込むようになった――即ち、自らの中の闇にどうしようもなく気付かざるをえなくなったのは、当然の事ながら犯行の起こるもっとずっと以前にある。それが具体的にどの時期であるか、何か具体的な1つのきっかけによるものであったかはともかくとして、少なくとも小学校5年の頃からナメクジや蛙、猫を殺し始めていたと云う事実はあったようである。彼自身、「人間の内臓や脳味噌の中身がどうなっているのかとずっと興味を持ってました」と語っている通り、小学校6年では粘土の固まりを人間の脳に見立て、それを赤く塗って剃刀の刃を何本も突き刺した作品を創って先生を仰天させたこともある。

 この時には彼は既に、この闇の部分は秘しておくべきものであるととらえていたことはほぼ確実だと思われる。というのも自分が他の人とは違うものを確かに持っているということを認識していたからであり、それは例えば次のようなエピソードから現れる。




そのうち解剖している時、勃起している自分に気がつきました。そして射精までしました。僕は異常でした。友達に話すと『お前おかしいのと違うか?』と言われ、落ち込みました。それでも猫を殺すことはやめられませんでした。




 ここでははっきりと自分というものに含まれているある部分が、明らかに他の人とは異なるということへの気づきが訪れている。おかしいと言われ落ち込むのは、自己の中において薄々と感じられていたものを、綜合たる自己のもう一つの関係性である他者の中ではっきりと確認したからである。*38しかし、それと言ってそこを無視して暮らしていけるほど、その闇との関係は容易いものではない。何故ならば、それは確かに自分の内にあるものであり、食虫花が甘い匂いやきらびやかな色で飾り立て、寄ってくる虫を捕らえるのと同じように、一旦それを明確に意識してしまったら最後、絶やすく人を引きつけて離さなくしてしまうようなものだからである。

*38 キルケゴールの自己の規定。「それはそれ自身に関係する関係であるとともに、それ自身に関係することにおいて他者に関係するような関係」であるような措定された関係こそが人間の自己なのであるという言葉に因る。




 この点に関しては、知らない者は幸せである。例えば人は普段“自己”など考えずとも生きていけるが、なまじっか知識があり学問的に考えることに慣れている者は、一旦自分の“自己”というものに気づき考えることをはじめてしまうと、それを考えずにすますことはもはや不可能事となる。この“自己”という怪物は何かと機会を捉えてはその人を襲い、それをめぐる様々な問題に彼を躓きやすくさせてしまうことになるからだ。もちろん、それによって我々は新たな地平に到達することが出来ることもまた確かであるが、それと同時に、意識しない時には決して訪れなかった新たな苦悶もその胸中に抱え込まなくてはいけなくなるのである。

 それと同じように、『FBI心理分析官』やその他の殺人鬼ものの本を私と同じようにむさぼり読んだという酒鬼薔薇が己の内に抱いていた心の闇は、それに正対してしまったが最後、決してそこから抜け出せるものではないのである。これは、自己の概念を知ってしまった者が、自己について全く無知であった頃と同じように考えることがもはや不可能であるのと同じように、それを認識するということは、知らずに過ごしていた頃へは後戻りが効かぬ、底知れぬ深淵へとその者を誘う事になってしまうのである。それは例えば振り子がある地点から離れるために揺れることは出来ても、決してその支柱から逃れて永遠に逃亡することが出来ないように、顔を背けて逃げたとしても、気がつくとまた自らの前には深淵が口を開いているというようなことになるのである。

 かくして、酒鬼薔薇はまるで「持って生まれた自然の性(サガ)」のように、それを秘めつつも常に向かい合って行くしかなかったのであり、そこから逃げるぐらいなら、自らそうなろうと欲していったのである。

(第二章-11へ続く)


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