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【心の闇の探求】序-1 [心の闇の探求]


 前々から予告しておりました通り、私の修士論文『心の闇の探求 ~現代社会の歪みに対する一考察~』を公開したいと思います。論文なんでまあエンターテイメント性は全くないと思いますが、それでも私が全身全霊を賭けて書いた素晴らしい作品ではあると思いますので、興味或る方はお付き合い下さいますと幸いです♪
 本日は私の修士論文『心の闇の探求 ~現代社会の歪みに対する一考察~』より、序章その1を公開致します。ルビとかあまり振ってなかったと思いますので、もし読みづらかった申し訳ありません_._



序-1/序-2/第一章-1/第一章-2/第一章-3/第一章-4/第一章-5/第一章-6/第一章-7/第一章-8/第一章-9/第二章-1/第二章-2/第二章-3/第二章-4/第二章-5/第二章-6/第二章-7/第二章-8/第二章-9/第二章-10/第二章-11/第二章-12/第二章-13/第二章-14/第二章-15/第二章-16/第二章-17/第二章-18/第二章-19/第三章-1/第三章-2/第三章-3/第三章-4/第三章-5/第三章-6/第三章-7/第三章-8/第三章-9/第三章-10(2011-04-24公開予定)》


- 序 -

 我々は犯罪者と聞くと、何を思い浮かべるだろうか?

 万引きや空き巣、ひったくりなどの窃盗犯? 放火魔? 政治犯? 一筋縄ではいかない非行少年? 麻薬常習者? それとも、組織的な犯罪グループだろうか?

 程度の重いものから軽いものまで、これらも確かに犯罪者のイメージとして申し分ない。しかし、我々は漠然と犯罪者をイメージするとき、おそらく人の命を直接的に扱ってしまっている犯罪者――即ち殺人犯を思い浮かべてしまう事が多い。佐賀で起こったバスジャックの事件、豊川の主婦殺害、岡山の金属バット殺人などといった一連の17才の凶行しかり、大分の一家6人殺傷事件、神戸の酒鬼薔薇やオウムなどもまたしかり。これらは全てこの論文を書いている2000年現在印象に残る殺人事件であるが、ここにはその時代時代によってまた別の代表的事件が入ってくることであろう。

 歴史的犯罪者といえばユダヤ人虐殺を行ったアドルフ・ヒトラーを挙げることは簡単であるし、ジャック・ザ・リッパーの名で知られる19世紀ロンドンの切り裂き魔、15世紀に140人以上の子供を性的に陵辱し最後には縊り殺したジル・ド・レ男爵、吸血鬼ドラキュラのモデルとなったとも言われているヴラド<串刺し>公などは現在でも我々の心を魅了する。巷に溢れる推理小説でも殺人事件を題材として扱ったものが多い事は言うまでもなく、『羊たちの沈黙』『セブン』などを挙げるまでもなく映画ドラマなどにも数多くの殺人・殺人犯が存在している。

 実際の発生率としては犯罪全体の中で15%を切るぐらいでしかないものではあるのだが、この辺り、殺人やそれに類する行為というのは我々の心の中では遙かに大きな関心事となっているのが見てとれる。

 この傾向は更に事件がショッキングで凶悪なものになっていくに従って高くなる。それだけ大々的に報道され、連日連夜テレビや新聞などのメディアを賑わしているせいであるのかもしれないが、逆を言えばそれだけ話題性の高い、関心を惹く出来事であると言えよう。最近起こった大分の一家6人殺傷事件などといった少年の犯罪を、どこかで一度ならず話題の端に上らせている人も多いのではないだろうか。

 ではなぜ、殺人という行為はこれ程までに高い関心を生むのであろうか。

 その理由はまず1つ、不可解な行為に対する好奇心というものが挙げられる。普通の人にとって殺人やそれに類する行為というものはまるっきり対岸の火事――おとぎ話やテレビドラマの中の世界と同じく虚構の世界に近いものであり、自分にはとうてい真似できないと思われるその行為に対して好奇心を覚え、詳細に知りたがるのである。

 それ故に人々はありきたりで自分にも理由がはっきりと分かるような殺人――痴情のもつれや口論のあげくの衝動殺人、うらみつらみを抱いた末の殺人行為、お金のために人を殺すといったもの――よりも、殺し方が残虐である、謎に満ちた犯罪、普通でない動機から為された殺人行為といった、より不可解で好奇心を満たすものへと目を向けていくとも言える。

 人々の中にこの傾向が確かにあることは、ワイドショーやニュースでの事件の取り上げ方や、連続殺人犯や大量殺人犯、一般に分かり易い動機ではない「不気味で不可解な」動機を持った殺人者を扱ったノンフィクションが多く大ベストセラーとなっている現実を見れば一目瞭然であろう。乱暴な言い方だが、人は自分が分からないものほどより多くの好奇心を煽られるのである。

 ただ、このある種の恐いもの見たさとも言える好奇心にはもう1つ、裏の面があることも忘れてはならない。それは我々がこのような行為・事件に直面したときにおこってくる内心の葛藤に近いもの。即ち嫌悪感や恐れと共に、秘やかな愉悦をも覚える事があるという事実である。

 ボードレールが「万人の胸の中には絶えず2つの衝動が同時に存在する。1つは神に向かう衝動、もう1つは悪魔に向かう衝動だ」と書いたとおり、どのような人間でも多かれ少なかれ二面性を持っている。これを顕著な形で描き出したのがロバート・ルイス・スティーブンソンの『ジキル博士とハイド氏』であろう。ここまで顕著とは言えぬまでも、誰しもがふと魔がさす瞬間というか、自分の中に恐い考えが浮かんでぞっとしたという経験を持っているのはおそらく、疑いのないことである。この事が、なぜ殺人が注目を集めるのかということを考える上でも重要となってくる。

 いみじくもイギリスの殺人鬼デニス・ニルセンが語っているように、どのような不可解でおぞましい犯罪であろうとも我々は完全なる「傍観者」とは成り得ない。ニルセンは12人ないし15人の男を殺してその度に遺体を数ヶ月間隠し、その後にばらばらに解体して焼却したり肉を細かく刻んでトイレに流したりしたとされている殺人鬼だが、その彼がこの人間の二面性と醜悪なる好奇心について次のように語っている。




たいていの人は「普通」でもなければ「正常」でもない。彼らは、自分自身について、また自分が何者であるかについて、おしなべて無知であり、その無知によってたがいに結びついているように見える。彼ら1人ひとりが邪悪な考えを、がたがたと音を立てる数多くのがい骨といっしょに秘密の食器戸棚にしまいこんでいる。彼らは、私と同じような「タイプ」(珍しいタイプ)に好奇心を抱き、生身の人間が、なぜ、どのようにして、その自分自身の中にひそむ単なる邪悪なイメージや行動にすぎないものを現実に実行に移すことができるのか、というなぞに苦しむ。彼らもまた、そうした自分自身の邪悪な面を思い出させるものすべてを毛嫌いするのだと私は思っている。普通に見られる反応は、一般受けのする独善的非難のほとばしりであるが、それと同時に、事件の細部について、繰り返し友人や知人たちとうれしそうに語ることである。*1

*1 ブライアン・マスターズ『人はなぜ悪をなすのか』(森英明訳 草思社 2000)pp.28~29




 彼は自分自身、邪悪なイメージと呼ぶものをその心に抱き続け、それを実行に移してしまった殺人者ではあるのだが、だからこそそこには普通の人ならば無意識のうちに避けている、自分の心に巣くう闇を鋭く観察する目が感じられる。即ち我々は彼らと全く同じ“邪悪な面”をその内に有しているが、それを直視する勇気がないため、彼らの為した行為を様々な場で語るという代替行為を逃げ道として無意識に選択しているという事である。 これが本当であれば、我々だって一歩間違えば彼らと同じような残虐行為に手を染めるかもしれず、単に僥倖によってのみ彼らと隔てられている事となる。そこでは、良く言われているように彼らは我々と違う精神構造を持ったモンスターというわけでは決してない。

 今まできちんと定義をしてこなかったが、ここで言う“彼ら”というのは昨今世界中を騒がせている不可解な、まるで殺すことをその目的としているような殺人者。ある種殺人行為そのものに快楽を覚えているような快楽殺人者や、その動機の不可解さから社会学者のS・A・エガーが“無動機殺人者”と呼んだ者達である。

 カッとなって人をつい殺してしまった激情殺人のようなタイプの殺人者には、自分達と同じ人間だと考えろと言っても我々はそれほど抵抗を覚えないだろう。なぜならば、我々はそういう状況というものを具に想像できうるし、殺人者といえども一瞬の激情に駆られてしまっただけで、普段は自分達と同じごくごく普通の人間であると考えるに吝かでない面も多々持っているからである。これは例えば激情が去った後に自分がしでかした行為に恐れおののき、悔恨の念を覚えるなどといった部分であろう。これらのことから、普通よりも例えば少し短気な性格であるとの条件を付けながらも、我々の仲間入りを許されることになるのである。

 ところが相手が快楽殺人者・無動機殺人者となると、人は自分と同じであるという考えをその根底から拒絶する。彼らの行為・態度・考え方が普通であるところの基準である我々自身のそれとあまりにも異質であり、全く相容れるところがない、もしくは相容れる所を認めることによって自分自身と同列に並べたくない――これはニルセンが言った自分自身の邪悪な面を思い出させるもの全てを毛嫌いし遠ざけるという部分とも繋がってくる――からだと思われる。

 こう思うのがおそらく普通の人の反応であり、そう思いたい衝動が私の中にあることもまた確かである。しかしながら、それでもなお私は本質としては彼らが我々と同列な存在であり、ただ単に我々の持っている論理の位相が少し違って出ているだけであると主張していこうと思う。事実、これはその通りであり、本論においてそれは示すことができるものであるが、この人間の中にある衝動に逆らいながらそれでもなおかつ心の闇というものがどういうものであるかを考察すること。それこそが不可解な犯罪が増えてきたと言われる現代において必要な事なのである。

 というのもこう考えることによってはじめて、彼らの言葉というものを文字通りとらえていくことが可能となるからであり、またそれが重要なことだと思われるからである。先のニルセンの言葉にも示されている通り、彼らには普段我々が見たがらない心の闇と向き合ってきた中から発せられた貴重な言葉を持つ。本来であればその事がもっと重要視されていてしかるべきであるが、研究者においても彼らの行為を異質なものであるとし、その異常性を分類するだけに終始してしまい、本質的な部分にまで踏み込まれていないように思われるものが多い。分類という行為はそれ自体、意味があることではあるが、それと同時に型に填ったものへと仕分けしようとする色眼鏡で見てしまうという事にもなりかねない。それでは彼らの言葉を本質的にとらえていくことなど出来るわけもなく、本論文においてもこの罠に捉えられてしまうことだけは避けなければならない。

(序-2へ続く)


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