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明けました [日記・雑感]

もう新年一週間以上経ってしまってますが、明けましておめでとうございます。
大変ご無沙汰しています高波です。

考えてみれば一年近くもblogを更新してなかったんですね><
去年は自分の至らなさから色々な人に迷惑をかけてしまった一年でした。
なかなか創作にあてる時間も精神状態も作れず、悔しい思いをしたこともしばしば。

最近ようやくちょっとずつ落ち着いてリズムを作れてきたので、こうやって復活してきました。
今年はぼちぼちblogも更新していきます。
一年以上もお休みしていたおかげでblogに書いていきたいこととかこのblogの方向性とか色々と伝えたいことは溜まっているのですが、まあ無理してもまたぽしゃってしまいそうなので、自分のリズムで徐々にやっていきたいと思います^^;

とりあえず今までのような長編をどんと一括で出すのではなく、もっと断片的なピースの投稿や日々心をよぎった言葉の投稿が増える予感。
もち、長編もやっていきますけどね。
この苦しんだ二年間で得たものを色々出していきますわ~。

まあそんなこんなでまたリスタートしていきますんで皆々様どぞよろしく^^/
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【心の闇の探求】第三章-9 [心の闇の探求]


 またまたかなりご無沙汰してしまってすみませんorz
 あかんなあ・・・なかなか調子が安定しない・・・。あと少しですし、この後はなんとか最後まで息切れせずに行きたいところですが・・・頑張ろう。

 本日は私の修士論文『心の闇の探求 ~現代社会の歪みに対する一考察~』より、第三章その9を公開致します。ルビとかあまり振ってなかったと思いますので、もし読みづらかった申し訳ありません_._



序-1/序-2/第一章-1/第一章-2/第一章-3/第一章-4/第一章-5/第一章-6/第一章-7/第一章-8/第一章-9/第二章-1/第二章-2/第二章-3/第二章-4/第二章-5/第二章-6/第二章-7/第二章-8/第二章-9/第二章-10/第二章-11/第二章-12/第二章-13/第二章-14/第二章-15/第二章-16/第二章-17/第二章-18/第二章-19/第三章-1/第三章-2/第三章-3/第三章-4/第三章-5/第三章-6/第三章-7/第三章-8/第三章-9/第三章-10(2011-04-24公開予定)》


第三章 心の闇の探求

- 第三章-9 -

第三節 闇への分かれ道

(第一項 「死」へと向かうもの)

 闇へと向かう心は即ち、自分の中にある悪への衝動――もっと限定すれば自分の中にある残酷な行為を愉しむ能力のことである。そのようなものが自分の中にあるだけであるならまだ耐えられる。大抵の人はそれを感じることはあっても、あくまで傾向としてであり、実際の残酷な行為にしても自らが行うところまではいかない。ヴァーチャルな代替行為として与えられた「死」を愉しむことはあっても、実際の行為は肉体的・精神的暴力として噴出するのが常であろう。

 だが、それが生命を直接に扱うことになると次元が1つ違ってくる。実際体験として生命を扱ったとき――これは、多くタブーとして存在する――に感じる愉悦までもが自分の中に確固としてあることを認めざるを得なくなった場合、そこには何が生じてくるのであろうか。はたしてこれは、そのような「傾向」ではなく実際に残酷な行為を愉しむ能力が確固として、(しかも、人よりもはるかに大きいものとして)自分の中にあることを突きつけられるに等しいものである。自分がその行為を愉しめる、愉しんでいるというある種忌まわしい事実とともに、そのようなことをする力――その愉しみを引き起こす力をもまた手に入れたことになるのだから。

 このような行為が引き起こす「死」がまた、我々の中にある残酷な行為を愉しむ能力を最大限に活性化させることは言うまでもないことだろう。我々が考える「悪」の方向へそのような行為が一番合致しているからであり、また、他の存在の苦しみのはるか先に連なるものとしてそのような「死」があるからである。

 その意味で、彼らは「死」に惹きつけられた者だったといえる。「何故、僕が人間の死に対して、この様に興味を持ったかということについて話しますが」、この言葉で始まる酒鬼薔薇の供述調書の一文が実際にこのことをよく表している。




(前略)僕自身、家族のことは、別に何とも思っていないものの、僕にとってお祖母ちゃんだけは大事な存在でした。

ところが、僕が小学生の頃に、そのお祖母ちゃんが死んでしまったのです。

僕からお祖母ちゃんを奪い取ったものは死というものであり、ぼくにとって、死とはいったい何なのかという疑問が湧いてきたのです。

そのため、「死とは何か」ということをどうしても知りたくなり、別の機会で話したように、最初は、ナメクジやカエルを殺したり、その後は猫を殺したりしていたものの、猫を殺すのに飽きて、中学校に入った頃からは、人間の死に興味が出てきて、人間はどうやったら死ぬのか、死んでいく時の様子はどうなのか、殺している時の気持ちはどうなのか、といったことを頭の中で妄想するようになっていったのです。*23

*23 例えば福島章「さかきばら少年の精神医学」(『犯罪と非行』114巻[1997.11])を見てみるといい。




 酒鬼薔薇が大事な存在であった祖母の死を境にして、「死」というものに如何に惹きつけられていったか、ここではそれが語られている。非常に淡々と語っている感じだが、「死」と結びついた《心の闇》が如何に切り離せない強力な力動として育っていくものかは窺えるだろう。彼にとって初めは小さなこだわりとしてあったもの――「死」と自らの中の悪へと向かう衝動を結びつけたことにより、彼自身漠然としてあった悪へと向かう衝動を完全に自分自身のものとして感じざるをえなくなったのである。*24

*24 これは、必ずしも人の死に限らない。「死」というもの全般に対する結びつきであれば同等のもの――生命に対する直接的な力の行使があるのであり、そこではここで述べることと同等の力学が働くことは言うまでもないことである。後で述べるとおり酒鬼薔薇は祖母の死をきっかけにして「死」というもの全般に強く惹きつけられていったのであり、それは彼が「自殺としての他殺」へ向かうある種無視できない要因として存在するのである。




また、宮崎においてもこれは同様である。祖父の死が重要な契機となったことは前にも述べたが、彼はおじいさんの死について「おじいさんは実際のところ死んだのか見えなくなったのか分からない」といい、その考えに基づいて「死」というものをやはり探求していくのである。その独自の死の観念の中においては、死んだのではなく「見えなくなった」のであれば「肉物体」を送ることによって「よみがえらせる」ことができるとする。*25が、この送らなければいけない「肉物体」自体、何か他の生命の「死」によって作られた残り滓としてある。初めは死んだおじいさんの骨として、次にはあちこちから集めた小動物などの死骸として、そして最後は自ら死をもたらした幼女の肉体としてその肉物体は存在し、おじいさんを「よみがえらせる」という観点から、やはり「死」というものを自らの闇と結びつけて追求していくのである。

*25 「少年A 犯罪の全貌」『文藝春秋』[1998.3]p.144(「平成九年七月十三日付供述調書」)




 併せて考えるならば、『夢の中』に掲載されている芹沢と山崎の対談の中で彼らが宮崎の犯罪を捉えて「生命犯罪」だと言っていたことも象徴的である。そこにおいては「生命そのものを動かすことを神にかわっておれがやるんだ」という表現で、宮崎が生命を直接に扱おうとしていたことを述べている。*26このような「生命」を扱う行為が、同等のものとして「死」を支配することに直接繋がっていることはここで言うまでもないことだろう。豊川の少年が「人を殺す体験をしてみたかった」と言っているように、死の瞬間――つまり「死」というものに対する一種の探求がそこにはあり、それが自らの闇と結びつくことで相乗的に「自殺としての他殺」へと向かっていくのである。それが、闇と向き合って後踏みとどまれる者とそうでない者のまず大きな違いであろう。

*26 彼がこの「闇へと向かう心」を完全に認識していたであろうプロセスは第二章において語ったものである。50ページを参照されたし。





第二項 心の闇と向き合うコト

 自分の中の残酷な心にそれを否定する余地もなく気付き、それと向き合ってしまうこと。これが無動機殺人者を無動機殺人者たらしめるまず第一歩としてある。そして、それはその闇の心が「死」というものと明白に結びつき、それを直接に扱えることを認識することでますますもって大きくなる。しかしながら、それが真に自己を「自殺」へと追い込むためには、おそらくもう一つ大きな鍵がある。

 すなわちその《心の闇》がどの程度の抑圧でもって本人の中に存在するかということである。先に酒鬼薔薇がこのような心を如何に厭うべき、外には出せないものとして、自らの秘密の部分に抱え込んでいたかは述べてきた。まさにこのように、自ら抱え込んで外へと出さないようにすることは、それだけ自身のある部分を押さえ込んで押し殺す抑圧構造として働く。*27この抑圧が閉塞されたものとしてそこにあることは明白であろう。

*27 宮崎勤,前掲書,pp.58,103~104




 前にも述べたように、今の日本社会では何故悪いのかの何故が浮遊し、きちんとした体系的説明もないままに「悪」へと向かう心の否定をしていく状況にある。そこにおいてはその「心」を外に出すことはすなわち自分を異常者としてレッテル付けすることにも繋がり、容易に自分自身の中に秘めたものとして、外に――他人の目に触れるところで表れてこないように厳重に鍵をかけた檻の中に幽閉して見張っていくことに通じてくる。これは、自らの性向を述べたり、作品として表したりした酒鬼薔薇が、「異常」であるとして友人に、先生に、位置づけられた事から見てもよく分かるだろう。ここで残された選択肢は、そのまま「異常」である状態に社会の中で位置づけられながらも、そのような心を押し隠さずにいくか、それとも表面的には目立たなく<いい子>の仮面をかぶり、その大奥にそのような心をしまって外へと出さずにすましていくかのどちらかしかない。それを持つことすなわち異常であるという風潮が余りにも広がってしまっているために、その抑圧は全く外部への通風口が存在しない、閉塞されたものとして生じてしまうのである。

 もしここで生き物の血を見ることが大好きで、苦しんでいる姿を見るとゾクゾクと悦びを感じると述べたとしたら、それこそ「異常」のレッテルを貼られてしまうのは確実だろう。即刻精神病院へ行って検査を受けさせられるか、それとも遠巻きにあることないこと尾ひれをつけた噂を広められ、普通でないことを宣伝されるかのどちらかであろうと容易に予想できる。そこまであからさまではなくても、例えば「殺人」に対して興味を持っている、色々な事件に対しどうしても興味を持って惹きつけられてしまうとなれば、それだけで「普通ではない」とされていく。前にも述べたとおり、自分の中にも一過性のものとしてそのような「事件」や「殺人」を大いに語るものはあるにもかかわらず、である。

 おそらくそれが自分達のごとくに一過性の発散としてあって、《心の闇》からは目を逸らしていくのが「普通」なものとしてあるのだろう。だが、現代においてはそのような《心の闇》にたいし、気付き直視し惹きつけられてしまう者は確実に少なくない数存在する。そのような者にとってはこのような社会の風潮は、確実に自らを抑圧する――自らの中にあるそのような「闇へと向かう部分」を表には出さないように隠蔽するものであることもまた、真であるのである。

 話を戻すが、もしもここで自分の中の悪へと向かう衝動が、完全なる閉塞的抑圧として存在しているのでないならば、それはおそらく救われうるものである。というのもそれを自分の中に疑いようもなく在るものとして認識してしまった後も、なおもそれを認め、それと対決していく場であり術であるものが残っているからである。おそらくこれらの場は古来より学問や芸術、信仰の場に在ったものであり、そこでは「悪」という名を借りた「闇へと向かう衝動」に対し、世間一般とは違いおおっぴらに語ることが許されてきた。ここでこのように「殺人」について語っていても、少なくともこの場においては世間一般よりも許容度が高いものがある。内容云々はともかくとして、それを語ることは許されているのである。

 あるいはこれらの事も、そのような悪へと向かう衝動をある種自分の外側にあるものとして目を逸らして考えさせることに一役買っているものであるのかもしれない。自分自身の中にそのようなものが在ることを例え絶望と共に認めざるをえないとしても、それが自分だけの異常性――特殊なものではないと知ることができるのであれば、その闇ははるかに御しやすくなる。自分の中の異物として恐れ嫌悪しつつ相対するのではなく、恐れ嫌悪するのは同じであるにしても、より冷静に自分のものとしてある部分であることを受け入れる事が可能となるからである。そこには自分だけが孤立したものとしてその闇を抱えているのではなく、世界と、他人とある種繋がったところでそのような心性と対峙していく――そのような意味で自分を越えた外側にあるものだと考えることを可能にするものが確かにあるからである。

 しかし、今まで述べてきたような現実の状況はどうか。これはこのようなものとは全く正反対へと向かっており、そこには自分自身、その中にある《心の闇》を抑圧し異物として向き合って行くしかないものとして存在する。そう、言うなればこの「孤立」して――つまりは自分のみが異常者としてこの《心の闇》と対峙していかなければいけない状況、これこそが根本的なところで一番問題となるべくあるものであり、無動機殺人者及び潜在的無動機殺人者の多くは「孤立」して自らの闇と向き合わざるをえなかった者達なのである。

 彼らが精神的な自殺として「闇へと向かう衝動たる心の体現である自己」へと自らを重ね合わせることを選ぶのは、そのような自己が自分の中で抑圧の対象としてしか存在せず、それ故耐え難いものとして在ることにある。それが自らの内奥にひっそりとあり、普段意識をしなくてもすむのであればあるいはこれでも問題ないだろう。だが、それらは事在る毎に感じられるものとしてある。それは我々がそのような心を満足させて発散させるための娯楽を社会のいたるところに抱えているからであり、なおかつそれらの情報へとアクセスせずにすんでいた時代とは違い、今は情報過多――知った後に取捨選択をするように移り変わってきてしまっているからである。自分の中の闇から目を逸らし続けている人とは違い、一回自分の中にそのようなものを認めてしまった人にとっては、そこで「知る」ことがそのまま自分が閉じこめている「闇」の存在を感じることに直結する。ここではもはや後戻りをできない新たな地平にその者は置かれているわけであり、完全に忘れ去りでもしない限りそれを感じずに――考えずに済ますことは不可能なのである。このような傾向はそれが「死」と結びつくことによってはるかに大きく、またより頻繁に感じられるものになる。

 耐え難いものとして自らの中の「異物」であるのなら、それの部分の拡大はすなわち自己に対する明白な浸食である。それは自分の中の倫理観とも無関係ではないが、そのような意識でいる限り、自分の中で「闇」が感じられる度にその浸食は確実に進んでいく。人が「弱き自殺者」となるのはその浸食がとどめようもなくなったときであり、その時はもう自己の内をほとんど占領しているかのように居座る《心の闇》に対し、自分を同一化させることでそれと対峙する苦しみを打ち破ろうとするのである。ここにはあるいは抑圧されていた《心の闇》の明白な反乱――噴出の構造が見られるかもしれない。だが、自分がその耐え難いものを常に抱えてきた主体にとってみると、これは一種の勝利宣言にも等しいものとしてある。何故ならば、苦しんでいる部分を殺して耐え難いものと一体化するのであれば、それはそのまま今までの内部の葛藤に決着をつけたことに繋がるのだから。*28

*28 同pp.215~217




 ここにおいて、無動機殺人者は無動機殺人者として存在することになるのである。

(第三章-10へ続く)


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【心の闇の探求】第三章-8 [心の闇の探求]


 震災やら何やらですっかりご無沙汰してしまいましたorz
 修論公開の続きです。そろそろ終わりも見えてきましたので、一気に行きたいと思います。

 本日は私の修士論文『心の闇の探求 ~現代社会の歪みに対する一考察~』より、第三章その8を公開致します。ルビとかあまり振ってなかったと思いますので、もし読みづらかった申し訳ありません_._



序-1/序-2/第一章-1/第一章-2/第一章-3/第一章-4/第一章-5/第一章-6/第一章-7/第一章-8/第一章-9/第二章-1/第二章-2/第二章-3/第二章-4/第二章-5/第二章-6/第二章-7/第二章-8/第二章-9/第二章-10/第二章-11/第二章-12/第二章-13/第二章-14/第二章-15/第二章-16/第二章-17/第二章-18/第二章-19/第三章-1/第三章-2/第三章-3/第三章-4/第三章-5/第三章-6/第三章-7/第三章-8/第三章-9/第三章-10(2011-04-24公開予定)》


第三章 心の闇の探求

- 第三章-8 -

第二節 闇に惹かれるものたち

(第二項 自らの中にある闇)

 以上のような傾向は、現代日本において様々なメディア、社会現象を通して殺人者たちがある種身近ものとなっていることによっても拍車をかけられている。現在は小説、テレビドラマ、映画ゲームなどの娯楽において、実に様々なところで殺人者たちとその「異常な」世界が語られている。それでなくても凶悪な事件の報道などで、その報道が事件の細部のみならず、周辺性や様々な憶測飛び交う加熱したものとなることは周知の通りである。このようなものは先に述べた我々が闇を発散させる「代替行為」のために当然のこととして存在してきたものであるが、皮肉なことにそれ自身が我々を「闇」へと向かわせる装置として働いていることも否めない。先の、知ることによってその苦悶にも新たな地平が訪れるという話ではないが、我々は殺人者について情報を持ちすぎた。様々な書物、フィクションやノンフィクションなどを通して、自分たちとは違う彼らの世界は容易に語られる。だが、それがまたふと立ち返って自分たちの中にそのような世界――傾向がないかどうかを心配させるものともなっているのである。

 以前のようにそれらが何処か遠い世界での出来事――完全なる異常者としてあるのであれば、決してそのようなことは起こり得ない。だが、精神病にも正常と異常の境界がますます曖昧なところで表さざるを得ないボーダーラインなどの症例を規定しなければいけなくなったように、我々の中にも存在するモノを感じさせる部分が、詳細に知れば知るほど多くなってきているのである。これは殺人者の中にある「闇へと向かう心」が我々の中にも多かれ少なかれ存在している事実を考えれば当然のことであるが、詳細に描けば描くほど、それは我々自身の中に同様の傾向を認める因子となりえるものとして存在することとなってしまうのである。*19

*19 職場を離れた場所においての上下関係の押しつけや、職場を引けて後の「赤チョーチン」の賑わいなど、個人が非合理な小集団に包まれざるを得ないことを指しており、間庭はこの事を日本的ゲマインシャフトと呼んで分析している。




 卵が先か鶏が先かではないが、《心の闇》へと向かう者たちが増えたことによってそれらの犯罪が生まれ、それらの犯罪について詳細に語ることが更に《心の闇》へと向かわせる者を増やし、それが更に詳細な《心の闇》の世界を描くことを可能にさせる。永山則夫がドストエフスキーの『罪と罰』に強く惹きつけられるものを感じ、ラスコリーニコフに自分を重ねてしまうようなことがあったように*20、本来であれば代替行為をただ提供するだけであったものも、今は自らの中の闇を気付いていくプロセスに強く寄与していることは見逃せない一つの現実としてあるのである。

*20 エリクソンは「社会が、青年たちに有形、無形のイデオロギーという形で提供する理想像のシステムである」と述べ、「未来に対する明確な見通し」をその第一のものとして提供するものだと言っている。それは全ての予測可能な時を包括し、各個人の「時間の拡散」に対抗するものとしてあり、健全な自我同一性が発達せるに必要なものである(『自我同一性』p.193)。先に述べた日本の状況は、この部分がまずうまく働いていないことを示しているだろう。




 このような状況の中にあって、現代においては《心の闇》が(本来であれば向き合わずにすんでいたであろう)我々にとってももはや無視できないものとして存在することが理解されたであろう。しかしながらライオネル・ダーマーが言ったように我々の中にある《心の闇》と殺人者の《心の闇》は、その根底の「質」はともかく量的な面からは明らかに天と地ほどの差が存在するのも確かである。

 そこで、次節においてはこのような差が一体どこから訪れるのか、それでもなお存在するであろう、《心の闇》に向かい合っていながら殺人者になる者とならない者の違いは何か、それを考察していこう。その先に、現代を生きる我々が向かい合うかもしれない危険として存在する《心の闇》とどのようにつき合っていくべきであるか、それもまた見えて来るであろう。それを示すことをもって本章の、そしてこの論文の締めくくりとしようと思うものである。




第三節 闇への分かれ道

 この節においては等しく深淵をのぞき込んだ者であっても、ある者はそこに踏みとどまり、そしてある者はそれを大きく育てることとなる要因について考察する。まず第一に我々と彼らの大きな違いは《心の闇》を自分の内に有していることに気付いているか気付いていないかというものがあるが、例え彼らと同じ《心の闇》をその内に認めたとしても、我々は彼らのようになりたくはないし、また、なるわけがないと願う。だが、彼らであっても初めからそのような存在にはなりたいとは思っていなかったのは今までの考察で明らかであろう。以下は《心の闇》と向き合ってしまう可能性がかつてないほど高くなってしまった我々が、実際にその闇と向き合わざるを得なくなってしまった際、どのような力学で殺人者へと向かってしまうのかについての論説である。

 ここでは何が彼らをそのような「自殺」としての「他殺」へと向かわせ、また何がそれ以外の《心の闇》と向き合う者をその状態へととどめているのか。その分かれ道にあるわずかな違いはいったい何なのであろうか。また、そのようなものは実はなく、誰もが彼らへと向かいつつある途上において在る者なのか。それをはっきりさせていかなければならない。

 結論から言えばこの違いは、存在する。古来からこの闇を見つめてきており、対決してきたであろう知識人がおしなべて殺人者ではなくありえたように、誰もが彼らのごとくなるわけではない。ただ、我々の中においてはその違いが非常に微妙なものとしてしか存在していないことはまずおさえておかなければならない。ここで述べることがその全てではないと思うが、私の思うところその分岐点に立つものとして大きく存在するものとは、その闇を明白に死と結びつけているかという点と、自らの中に在るものと認めつつもそれを外へと発揮できる場を与えられているかという点の2点である。これらのことについて、それぞれ詳しく述べていくことにしよう。




第一項 「死」へと向かうもの

 《心の闇》から目をそらすのに一番有効なものとしてあることは、それを自らの外部にあるものであると考えることである。そのように考えて自らの内に存在しないものであるとするのが、おそらく我々が通常行ってきたことであろう。だが、この事は例え自らのうちにその《心の闇》を認めたとしても、それを外部から進入してくる何か悪いものであると考えることによっても為されてくる。これは例えばキリスト教における「悪魔」のような存在であり、日本においても憑き物として語られてきたものが挙げられる。このように「闇」を自らの外にある存在に委託し、それが自分の中に進入したことによって出現してきたものと捉えていくことによって、我々はいったん向き合ってしまった《心の闇》から目を逸らしていくことが出来る。そこでは自分の内部に常にあるものとしてそれを意識するのではなく、その力に対抗して追いだせばいいものとして描かれやすいからである。それは非常に困難を極めるものとしてあるが、それでも自分自身の影と向き合わなくてすむ分幸いである。

 だが、先に見てきたように今の日本においてはこれがない。そこでは一旦向き合ってしまったが最後、それを自分のものとして抱え込まなくてはいけない力動が働き、直接に自分のものとして自己の内部から存在を主張するものになるのである。このような状況において、しかしながらまだそれと向き合いつつ生きていくことは可能である。つまり何かとその存在を感じはするが、それを押し殺して尚かつ秘密としておけるだけの許容量は心の中にあるからである。

 おそらくここにおいて、自己のアイデンティティが確固としてある者はこれを押しとどめやすいものだろうと思われる。というのも「本当の自分」として確かに感じられるものがそこにあるのであれば、例え「闇」を外部にあるものとして転化できないまでも、擬似的に「自分ではないもの」として自己の周辺部に押しやっていくことが出来るからである。

 だが、これさえも朧気で危うい状況に日本の殺人者があることは確かである。酒鬼薔薇にしても宮崎にしても、自我同一性の拡散傾向があることは多くの精神科医によって指摘されてきたことである。*21こうなってくると自分の中のやましい部分――すなわち悪へと向かう衝動はより差し迫った危険となって訴えかけてくるが、おそらくそれが殺人者となるまでに大きく育つことになる原因は、その者と「死」との距離感にある。

*21 当然このような傾向は、自分自身を捜し求めていく者に対してはより強く働くことは言うまでもない。これはとりもなおさず現代日本において少なくない潮流にあるものであり、相乗効果として「心の闇」への気付きを強めていることは言うまでもないことだろう。




 宮崎にしても酒鬼薔薇にしても、その犯行の前に一番身近な人間が死んでいるのはよく知られている事である。宮崎ならば「おじいさん」の死が、酒鬼薔薇であれば「祖母」の死が、それぞれの犯行に際して影を落としていることは疑いようがない。例えば宮崎の祖父が死んだのが88年の5月、彼が最初の事件を起こしたのがその年の8月であることなどからもこれは分かるだろう。

 だが、これはよく言われているように彼らの「支え」として在ったものがなくなったという側面だけでなく、もう一つ別の面も有している出来事だったと言えるのである。それが彼らと「死」という現象との距離の接近であり、そこでの強固な結びつきこそが、彼らの中で自分の内にある闇をより身近なもの、分かちがたいものとして自分自身に結びつけていくことになったのである。*22

*22 永山則夫『無知の涙 増補新版』(河出文庫 1990)pp466~467に見られる告白記を参照のこと。




 考えてもみて欲しい。自分の中にある悪へと向かう衝動――残酷な心をより強く感じるのはどのような時であるか。それは明らかに「死」を自分の手で創り出す瞬間であり、生命をその手で扱うときであろう。例え残酷な心を自分から切り離せないものとして感じ、それと向き合わざるを得なかったとしても、それが直接に生命を扱うまでに「死」へと結びついていないのであれば、それはまだ安全なものとしてある。ただ、それが直接に「死」へと結びつき、自らの手で「死」を創出し始めると、その心の存在とその心が感じる愉悦は遙かに大きく膨れ上がってくるのである。

(第三章-9へ続く)


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東日本大震災によせて [宇宙病]

ご無沙汰しておりました。高波です。

あの恐ろしい東日本大震災の日からはや2週間近く経ってしまいました・・・

未だかなり大きな余震が頻発していたり、原発災害が沈静化していなかったり、計画停電でてんやわんやになっていたり、街から様々な物資が消えている現状を見るに、まだまだこの災禍はのど元も過ぎていないのでしょうが、それでも徐々に街に冷静さが戻り、ちょっとずつ物資や日常が戻ってきているのは、何かほっといたします。

とはいえ、直接の被災地から遠く離れた東京ですらこうなのですから、大地震、津波の被害が襲った現地の惨状はいかばかりか、それを思うだに心が痛みます。。。

この度の震災でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りすると共に、未だ被災地で大変な思いをしている被災者のみなさまに、一日でも早く希望の光が届きますように今は祈るばかりです。

さて。

地震が起きてからのこの10日あまり、自分の無力さをこれほど感じる毎日はありませんでした。

通常の人でも被災地の様子を見て心を痛め、自分にできることはないか、少しでも自分が被災地の人のために何か貢献できることはないかを考えて無力感にさいなまれることが多々あると言います。

普通の人にとってもこうなのですから、私のような宇宙病をはじめとしたメンヘラーにとって、この大災害を前にした無力さ、役にたたなさ、卑小感というのはより一層、心を苦しめるものであるのは言うまでもありません。

仲間が次々募金活動や支援活動、ボランティアなどで自分に出来ることを精一杯やっているのを尻目に見ながら鬱が昂じて布団から全く動けない日々。

他の人が被災地の現状に胸を痛め、涙を流して自分に出来ることをやっている最中、自分は身近な家族関係で悩み苦しみ、お金もなく何もできずにただ鬱々と毎日を過ごす…

いや、ほんと、この苦しさったらありませんでした。

何回か、自殺寸前のところまで思考が落ち込むのを、数ヶ月ぶりに体験してしまったくらい・・・

よく、今、まがりなりにも浮上してこういう風に文章を書けるところまで来られていると思います。

もちろん、被災された皆さんの苦しさ、大変さに比べればあまりにも卑小で個人的すぎる苦しみではあるでしょう。
精神的にも肉体的にも、被災地の皆さんの方が大変であるわけで、そんな中であまりにエゴ丸出しの思考であるかもしれません。

ですが、被災地のためにできることを考えても何も出来ない自分の卑小感、周りの仲間が精力的に動いている中、全く動けない自分の情けなさ、もっと大きな苦しみを前にして些末な家族関係の不和に悩む自分・・・宇宙病を襲うネガティブスパイラルがどんどんどんどんと自分の心を追い込み、更に無力感と卑小感を育て、のっぴきならぬ所まで持っていったという、このことはリアルな出来事として自分の身にはありました。

このように自分ほど極端に出る人は少ないかもしれませんが、宇宙病(をはじめとしたメンヘラー)の方は、おそらく多かれ少なかれ同じようにこの災害を前にした自分の無力さにダメージを受けているような気がします。

自分の場合はバイオリズム的な落ち込みと現実の問題の勃発と大災害がほぼ同時に襲来してここまで来てしまったのですが、そうでなくても被災地の映像を見て心を痛める、被災地の皆さんの現状を思って涙を流す・・・それが普通であるはずなのに、自分はそれすらもできず自分の問題で苦しんでいる。そのことがひどく心苦しい、そう思ってしまう宇宙病の方は多いと思うのです。(それがこの病気の心理の動きだと言ってしまっても過言ではないでしょう)

ある意味、他人の苦しみ、他者の苦しみに過敏すぎ、それ故その空気に共感して自分自身の問題を大きく広げてしまう・・・これは一般の人でもPTSDなどの危険があると心理学者の方から警告を受けていましたが、メンヘラーとなるような繊細な心を抱えている方には、より一層危険なトラップなのではないかと思います。

なので、もしかしたら不謹慎のそしりを受けるかもしれませんが、その危険を承知の上で私は敢えて言いたい。

ご自身の問題を抱えている宇宙病(やメンヘラー)の方はどうぞ、自分自身の問題が一番問題であることを、地震や津波や原発事故や停電などよりももっともっと差し迫った宇宙の真ん中を占める問題であることを、どうか卑下しないようにして欲しいのです。

他人に比べてどうであるとか、他にもっと大変なことがあるからとか、そんなのは関係ありません。

あなたにとってその自身の病気こそが一番の解決すべき問題であり、この非常時だからと言って、それは変わらないのです。

どうか、どうか、非常時なのに他人のために立てない自分を恥じるですとか、自分を責めるですとか、そんなことはしないでください。

この非常時に何もできないことが心苦しいと言うのなら、自身の病気が治り、力一杯活動できるようになった時に、今の何倍も何十倍も何百倍も社会のために貢献してください。

我々宇宙病者にとっては自身がより健やかに活動的になれるよう、より一層精進して療養に努めることが、何よりの震災復興支援であり社会貢献なんですから。

病気の最中のパワーのない状態で無理に動こうとしたり、自分を責め苛んだりして病状を悪化させることは、あなただけではない、あなたの周りにいる人たちのパワーも奪ってしまうことになるんです。

ですから、どうぞ、どうぞ、自分の心の健康を、ご自身の心の安定を、一番に考えてあげてください。それを考えることは、あなたの恥ではありません。

願わくば、この震災を前にした無力さで苦しむ人の心に、この言葉が一粒の福音となりますように。

そう願って、自分の心の傷口を正直にさらけ出しました・・・
まっ、皆一丸に震災復興に向かう空気の中、たまにはこんな言論があってもいいでしょう^^;;;
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『うつと自殺 乗り越えるために』 [宇宙病]

3/7に放送されたNHK『ミドルエイジクライシス』シーズン5
「うつと自殺 乗り越えるために」がWebアーカイブになりました♪

以下のページで見ることができますので、
首都圏以外の方や見逃した方などはぜひ見てみてください。

私もかなり大きく取り上げられてます^^v


○NHKミドルエイジクライシス
『うつと自殺 乗り越えるために』
http://www.nhk.or.jp/shutoken/project/mc5/5n_0307_12.html


今後はここで取り上げられたことの実現に向けて、頑張っていくぞ~!
タグ:うつ病
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創造の家 [宇宙病]

昨日の「ミドルエイジクライシス」で紹介された、
私が今後手がけていきたいと考えているインターネット上のコミュニティ
コンセプトはもう既にかなり固まっています。

ゆるく繋がりあい、支え合い、刺激しあえる場。

自分の魂の求める創造性を発露できる場。

そして何よりもそこに帰って来られる居場所としてのコミュニティ。

その名も、「創造の家」プロジェクト。

社会起業大学卒業生課外ゼミで、実現に向け様々に揉んでいる所です♪^^

今回は、その中から、全ての根幹になるコンセプト、序文をご紹介いたします。




「創造の家」

心こそが創造の源泉である

他者よりより多く、より深く、より大きく悩みぬいた者の心には、
穏やかで幽遠な魂が宿る
その深淵極めた心で以て、他者の叡智を創造する

他者よりより多く、より深く、より大きく苦しみぬいた者の心には、
情け深く寛仁な魂が宿る
その広大な心で以て、他者の安らぎを創造する

他者よりより多く、より深く、より大きく傷ついた者の心には、
鋭敏で繊細な魂が宿る
その感受性鋭い心で以て、他者の気づきを創造する

より多くの喜びを得た心はよりいきいきと豊かな世界を創造し、
より多くの感動を得た心はより気高く崇高な世界を創造する――

人の心が豊かになれば豊かになるほど、
人によって創られる世界も豊かになり、
それによって更に人の心が豊かとなり、
ますます創られる世界も豊かになって……

やがては誰も見たことのない至高の高みへと登っていく

ここは、そんな頂きを夢見る「創造の家」

悩み、苦しみ、傷ついた魂が、
それを乗り越え、
創造の翼を羽ばたかせるための場所

あなたの
悩みは、
痛みは、
苦しみは、
決して無駄にはなりはしない

それこそが、次なる創造へと繋がる翼
誰かの苦しみに寄り添える翼

心がはちきれそうな時
一人で抱えきれなくなった時
心に宿った創造の翼を大きく育てていきたい時――

ぜひ、「創造の家」の扉を開いてみてください

あなたのその心で、

新たな創造の一歩が刻まれます




こんな序文から始まるネットコミュニティ、あなたの心に届きますか?

NHK首都圏ネットワーク「ミドルエイジクライシス」に出演します♪ [宇宙病]

自分でも大変驚きなのですが・・・


最近、お仕事の関係で繋がった「うつ専門カウンセラー」の澤登和夫さん(さわとん)のお導きで



NHK首都圏ネットワーク「ミドルエイジクライシス」に出演することになりました!



放映日時は明日、3/7(月)の18時10分から。
首都圏ネットワークという番組の中の特集「ミドルエイジクライシス」の中で放映されます。

ミドルエイジクライシスはミドルエイジ(30~40代)を襲っている様々な危機を描いた番組ですが、いまシーズン5「新たな一歩へ」というテーマで番組が構成されており、今回は「自殺未遂からカウンセラーへ その後」という番組タイトルで「心の病にかかったが、その病気を受け容れ(克服して)更に先へ進もうとする人/その取り組み」を特集しています。

上の「自殺未遂からカウンセラーへ」というのが先にもあげたさわとんで、そのさわとんがまさにこれから手がけていこうとしているうつ病の人(とうつを支える人)のための

「居場所、味方、社会との繋がり(存在価値)」を作って行こう

というプロジェクトの紹介があると思います。
(私も参加したその発足式(第0回会合)がNHKさんの取材を受けました♪)


私もそのプロジェクトにコアメンバーとして関わることになり、かつ自分自身でも

「うつ病の人が自己の解放/発信/支え合いが可能なWebコミュニティ

をこれから手がけていくということで、単独でもNHKさんの取材を受けました。おそらく幾らか紹介されるのではないかと思います♪(色々撮られたシーンやインタビューがどう編集されるのかちょっとドキドキではあるのですが^^;;;)


ということで、私や私の活動、さわとんの活動などにご興味のある方はぜひ番組をご覧になってみてください♪
高波ではなく本名で出ていますので、ちょっと分からないかもしれませんが、まあ検討をつけることは可能かとwww

首都圏ネットワークということですので首都圏のみの放映になりますが、もしかしたら18日には全国放送もあるかもしれません。

あと、NHKの番組ページに後日動画がUPされますので、見られない方はそちらでご覧になる事もできます。

NHKの番組ページはこちらです
http://www.nhk.or.jp/shutoken/project/mc5/



しかし、まさか自分がこういう風にテレビに出るなんて一ヶ月前には思いもしなかったからなあ・・・
起業してこの一年(うつになってからは6年)、とことん苦しんできたことが本当に無駄ではなかったのだと思います。
それがあったから、そうやって自分の人生に本気に向き合ったから、こういう風に色々なものが引き寄せられてくるようになってきたのだと思うんです。

ほんと、これはまさに星の導きですね。すばらしきは人のご縁です♪ 感謝☆

これからも「うつの人が自分らしく笑って暮らせる暖かい社会」を作るべく、頑張っていこうと思います♪



ということで、放映も今後の我々の活動も、みなさま楽しみ(?)にしててくださいませ~^^/
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【心の闇の探求】第三章-7 [心の闇の探求]


 今回から週一、日曜日に移動しての更新です。原稿そのものはあるので、なるべく未更新がないように頑張っていきたいと思います。

 しかし、改めて読み返してみると、昔の自分凄いわ! 今回記述されているアイデンティティ論とかはまさに今、自分が活動している中で言いたかったことをずばり指摘してくれちゃってる!!(笑) この頃から追い続けている問題の本質は変わってないってことなんだなぁ、と改めて思いました^^

 本日は私の修士論文『心の闇の探求 ~現代社会の歪みに対する一考察~』より、第三章その7を公開致します。ルビとかあまり振ってなかったと思いますので、もし読みづらかった申し訳ありません_._



序-1/序-2/第一章-1/第一章-2/第一章-3/第一章-4/第一章-5/第一章-6/第一章-7/第一章-8/第一章-9/第二章-1/第二章-2/第二章-3/第二章-4/第二章-5/第二章-6/第二章-7/第二章-8/第二章-9/第二章-10/第二章-11/第二章-12/第二章-13/第二章-14/第二章-15/第二章-16/第二章-17/第二章-18/第二章-19/第三章-1/第三章-2/第三章-3/第三章-4/第三章-5/第三章-6/第三章-7/第三章-8/第三章-9/第三章-10(2011-04-24公開予定)》


第三章 心の闇の探求

- 第三章-7 -

第二節 闇に惹かれるものたち

第二項 自らの中にある闇

 我々が《心の闇》を身近なものとして感じるようになってきてしまった背景として、近代化が引き起こした経済的繁栄と教育の普及が存在する。第一章で見たように二十世紀において新しい殺人の形態が大量に現れてきたことと、この《心の闇》を我々が認識してしまうことの間にはやはり時代背景的な関連があるのである。

 産業革命以後出現してきた大量生産技術は、我々に対してもはや日々の糧を心配しなくてもいいような状況をもたらした。一昔前とは違い、我々はもはや金さえあれば日々の暮らしに困ることはなく、食料やその他の生活必需品も近くのコンビニエンスストアに行けば簡単に手に入るようになっている。そこには日々の生活の糧を得るために窮窮とするような状況は既になく、そこに回していたパワーを他に向けられるだけの余裕が出てくることとなったのは言うまでもないだろう。

 このような経済的繁栄は我々にある種の余裕と余暇をもたらした。C・ウィルソンは余暇は「何時でも性」を考える余裕を我々に与えることになったと述べていたが、まさにそのように我々には生活のためだけに全精力を傾ける時代を脱し(これはとりもなおさず今の後進国の状況であると言える)、それ以外の様々なことに力を注げる時代へと脱皮したのである。このことは先進国と呼ばれる国の状況を見てもらえば一目瞭然であるが、まず一つ、このような余裕が《心の闇》の認知に一役買っていることがまず言えるだろう。

 あえて言葉を重ねて説明するまでもないかもしれないが、以前は自分の身の回りの事を越えて娯楽や様々な学問へ精力を注げる人々はほんの一握りしかいなかった。国を支えている名もなき人々のほとんどは日々の暮らしを維持するだけで精一杯だったのであり、知識の探究や芸術を生み出す、思索に耽る等のことをするのはそのような余裕のあるほんの一握りの人間だったのである。このことは教育の普及度や識字率などを見てみてもよく分かる。

 よく知られているように、様々な社会で識字率が80%を越えるような高い水準に到達したのは近代化が為された19,20世紀以降の出来事である。それまでの時代においてはほとんどの人は字すら読むことはできず、従ってまた教育――学問というものにも触れてはいなかった。現在日本のような一億総中流の意識でもって全ての国民に一様に最低限の教育を施すような時代は未だかつて存在しなかったのであり、このことはもっとよく考察せしめられなければならない。

 当然のこととして、教育というものは様々なものに対する知識を増やすということである。知るということは自らの地平を広げるということだ。ものを知り、考え方を知ればそれだけ自分の視野が広がり、選択の幅が広がる。様々なことを違った側面から捉えることが可能になり、同時にそれだけ違った価値観が生まれてくることになる。知るということはそれ自体、悪いことではないが、ものを知らなかった時とはまた違った新たなる悩みをもまた、我々にもたらす危険があることは知っておかなければならない。

 先に自己の概念について知ってしまったものは何かとその「自己」という問題に躓きやすくなることを述べたことがあったが、それと同じようにある概念について知るということは、その概念にまつわって出現してくる様々な問題も一緒に抱え込むということなのである。もちろん、それについての概念を知らない場合にも、同様の問題に引っかかることはある。自己の概念について知らなくても、自分はなんのためにいるんだろうと引っかかることはあろう。だが、それは明らかに問題の「深さ」が違ってくるのであり、この場合、当然のこととしてその「なんのために」は外的な事実と結びついてくる。ここでの解決はおそらく仕事を貰うとか何かの役割が見つけだせれば訪れる。それに対してそれが「自己」の概念の側から来た悩みであったのなら、そのような外的事実だけではもはや解決は訪れなくなってしまっているのである。つまり、同じようにそこで何らかの役割を得られたのであったとしても、それを越えて自分というものの中にはそのような役割は一体何の意味があるのだろうという次元まで容易に転化してしまうからである。

 つまり、それについての悩みの度が、知っている状態ではより深くなることもあるのである。これは表面的なこと、単なる外的な事実だけを問題にするのではなく、自分の思考の内部にある概念についても問題にするようになるからである。キルケゴールの絶望の規定では自分が絶望の状態に無知であることから出発して、その概念を知っていくに従ってより深い絶望が訪れているように描いてあったが*16、まさにそのように自分の内的事実まで問題にしなければならない状況は、ただ単にある出来事について悩むだけとは違った苦悶をその者にもたらしていくのである。

*16 Lionel Dahmer,A Father's Story,Morrow,1994,p.212




 ここから、学問的に無知であった古来の大衆より、教育が整備された近代社会での大衆の方がより《心の闇》というものに気付きやすくなる理由の第一が出現してくる。知識を得ることはそれだけ、自分の中に新たな悩みを抱え込むことにもまた繋がってくるのである。

 このような背景の元にまず《心の闇》が現代の脅威として現れてくる土壌が出現する。だが、おそらくそれをもっと身近な危険として促進しているのは、現代日本でもよく問題とされているアイデンティティの希薄化であろうと思われる。

 近代社会がもたらしたもう一つの傾向として、人口の密集する都市空間の形成がある。これは同時に共同体の崩壊とも無縁ではなく、互いに薄い関係性しか持たず、ほとんど行きずりの人間関係ともいえる関係が都市においては顕著であることが、有識者によってよく指摘されている。そこでは親密な他者関係はもはや失われ、精神的に「孤立」するような状況がまた多くなっているのは言うまでもない。

 また、それに加え日本的な管理型システム社会の持つ抑圧――間庭が指摘しているように、個々人の能力が代替可能な歯車としてのみ機能し、その場所にいるのが「自分」である必然性が全く感じられない状況や、合理的なシステムの中に非合理な共同態的因習を持ち込んで人々に全人格的な同調を強いる吸引装置として働くこと*17などが作用し、自己の同一性――アイデンティティが希薄化していることがよく言われている。前にも述べたとおり、自己同一性(アイデンティティ)の感覚は自分が生き生きとした生命的存在として実在しているという認識とともに、他者関係の重要さ――社会や世界と一体性を持っているという認識が必要となる。現代の日本社会はこのどちらもうまく感じられなくなってきているのである。

*17 ついでにもう一つ言ってしまえば、それに気付くことになった一部の人にあっても、先達の助けを借りてそれと対決できるだけの土壌は整っていたと考えられる。これは、古代より様々な所で表現されてきた善と悪についての議論を見てみれば分かるだろう。




 自分自身が何であるか分からない、本当の自分は別にいると感じてしまうアイデンティティの希薄化は、おそらく前節で述べた個人的な目標を持てない現状も関係してきているものだろう。そこでは目標にぶつかってとん挫するような挫折としてある自意識のぼやけではなく、はじめからどのように自己を構築していけばいいのかが常にぼやけている状況がある。挫折によって傷ついた自意識を回復するためにその挫折の元になり、抑圧の元となっている社会に向けて衝動を爆発させるということがアメリカの殺人者の根底にあるメカニズムだとよく言われているが、その場合は自分が在るべきものとしての目標がまずあった。それが自分の現状とマッチしていない場合は野心と呼んでも差し支えないものであろうが、それでも自己を支えるものとしてアイデンティティの構築に一役をかっているものである。日本ではそれすらもぼやけてしまっているような現状がある。*18

*18 ただし、絶望の度が深くなるということはそれだけ真理――救済により近づいた状態であることは注意されねばならない。無知であることはその分苦悶のレベルを小さくしてくれるものであるが、その分「知る」ことによって訪れる新たな地平の豊かさは得られないのであるから。




 このようなアイデンティティの希薄化は一体何をもたらすのか。これは様々な問題が指摘されてきているが、さしあたってここでは次のような事が考えられる。それは「何が本当の自分であるかが分からない状況は、それを何とかして見つけようとする力動をもたらすものである」だろうということだ。

 自己がしっかりとして感じられている者にとってはそれ以上、自分は何かという問題にはかかずりあわなくてもすむものである。時にはそこに引っかかることはあろうとも――これは例えばその目標がとん挫したとき、自己の将来に不安を感じたときなどに現れてくる――、自らそれを探求していかなければならない差し迫った緊迫感はない。だが、自分がぼやけてしまっている人――自己のアイデンティティが希薄な者はそれとは違い、自分は何であるのかという問題ははるかに差し迫った問題である。

 すなわち自分の内に外に自己の存在の探求を行い、自分が生き生きとして存在する証を得たいと望むのであり、それがない限りにおいて自分が生きる意味さえも失ってしまう現実が訪れるのである。これが例えば現代において発達してきた「自己」概念の洗礼を受けていない人であれば、おそらくここまで問題は危機的にならないだろう。そこにおいては自己の存在する証ははるかにたやすく外部の出来事と結びつくことができ、また自己にまつわる形で生きる意味など問いはしないだろうからである。だが、ここにおいてはその探求は急務であり、通常であればしなくてもいいその探求をあえてしなければいけないということはそれだけ、自分の中にある闇の部分に気付く危険も出てくるということである。

 これは明らかにそうだろう。先に述べたように我々も内部においては殺人者と同じ《心の闇》を多かれ少なかれ抱えていることは確かなのである。そこにおいて普段それを見ずにすまされていたのは、一つはそれを外部にある力として転化して語られてきていること、そしてもう一つは敢えてそこに踏み込まなくても、自分自身として感じられる自分がまずはっきりとしてあったからである。このどちらもが浮遊しているかない場合、当然のこととしてそこに踏み込んでいかなければいけない状況も生じてくる。考えてみるとすぐに分かることだが、私の中にある「闇」も、また「私」には違いないものとしてそこにあるのである。しかも、周囲の現実の中にある自己を感じさせない力動とは違い、明らかに自分のアイデンティティのよりどころともなりうる強力なものである。何故ならばそのような残酷さや悪へと向かう傾向というものは、それ自身悪いこととして社会から価値が与えら れているが故に、はるかに自分を規定するものとして感じやすいものであるからである。例えそれが自分を深淵の縁に導く諸刃の剣であるにしても、その「悪」であるものだけは自分の中に確固として存在するのだから。

 このアイデンティティの希薄化とそれを探し求めるプロセスの内に、自らのうちに存在する《心の闇》にふと気付き、向かい合ってしまう可能性が現代日本ではより高くなっているという理由の第二が存在することはこれで明らかだろう。現代の日本の社会には「悪」を外部からのあがらわなければいけない衝動だとして転化できうる宗教的倫理観も、自分の存在を確固として感じられるような個人的な価値観の創出も、ともに十分なものとして与えられていないところがある。このような中においては、普段は秘密の戸棚の中に閉じこめている自らの中の闇と向かい合う可能性はより高くなるし、向かい合った先それを自分のものとして抱え込んでしまうこともまた、多々起こらざるをえないのである。

(第三章-8へ続く)


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記事カテゴリ色々整理しました♪ [日記・雑感]

こんばんは。高波です。

ここ1年、以前ほど頻繁にレビューや日記を書かなくなっていたことと、今後のこのブログの活動の方向性を見据えて、ちょっとカテゴリを整理してみました。
古いカテゴリを全部「日記・雑感」に吸収してかなりコンパクトになった感じ^^;

とりあえず今後は次のようにしてみようと思ってます。

日記・雑感:日々思ったこと、考えたこと、ボウリング、レビュー等分類されない記事を入れるカテゴリ
宇宙病:自分がうつ病の最中にあって思ったことあれこれ
ことのは:自分が心を揺り動かされた珠玉の言葉たち
同人:同人活動に関するあれこれ、スペース告知など

・以下、作品カテゴリ
贄神:贄神シリーズ
遙かなる星々の物語:遙かなる星々の物語シリーズ
パム日記:パムの冒険日記♪
心の闇の探求:修論公開用
物語のかけらたち:一つの話になるには少なすぎる物語の断片、アイデア、設定ノートなど

作品カテゴリは新たなシリーズを始めたらその都度追加していく予定~


とりあえずこれからは、新たに加わった「宇宙病」「ことのは」「物語のかけらたち」のカテゴリを主にして、こまめな更新・・・というか発信をちょっと頑張ってみます。

まあたまに完全にくたばって更新が途絶えることがあるとは思いますが、そんな時は復活するのを生暖かい目で見守っていてくださるとありがたいです♪

ということでみなさんお楽しみに~^^/
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今後の連載の更新について [同人]

早いもので、今年ももう2ヶ月が終わり、3月になってしまいましたねえ・・・

今年こそは一杯更新するぞ!!と年初に気合い入れたにもかかわらず、ここ2ヶ月の更新頻度のていたらくといったら・・・・・・(遠い目



とりあえず、未だ色々と無理の利かない身体と状況であることは骨身に染みて分かりましたorz



頑張ろうと思ったんですけどねえ・・・


どうにもこうにも頑張ることが出来ないみたいですT^T

ので、すみません。
お待ちくださっている読者の方にはちょっと心苦しいのですが、今現在連載で抱えている作品について、今しばらく以下のような感じに更新していきたいと思います。

遙かなる星々の物語~ウェヌスの章~』 不定期更新(月1ぐらいはなんとか・・・
贄神』 休載
心の闇の探求』 週一日曜日更新
パム日記』 気分次第で電撃スタート&ゲリラ更新w

どうも今の言霊は贄神ではなく遙かなる~の方に向かっているようで、まだしばらく贄神再開は遠そうですorz
この作品を待っている方、1年以上も休載することになってしまいそうでほんと、申し訳ありません。
また言霊が降ってきたら再開しますので、今しばらくお待ちください(今年後半にはなんとか・・・

今年半ばぐらいにはなんとか正常化に持って行けるようにワークライスおよびリアルライフを頑張りますので、どうか生暖かい目で見守っていてくださいますと幸いです_._

2011/3/2 高波 修 拝
タグ:創作小説
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